飢饉とは
異常気象などによって農作物の全てが収穫できず、食べる物がなくなって人々が飢えに苦しんだり、飢え死にしたりすることを「飢饉」と言います。日本には「飢饉」について二千年以上も前から、たくさんの記録が残されています。その数を平均すると、なんと三年に一度は人が飢え死にするほどの飢饉が起こっているといいます。そして毎年どこかで人が飢えに苦しんだというのです。
天明の大飢饉
なかでも飢饉の歴史上例を見ないと言われるのが天明の大飢饉。
これは、江戸時代の天明二年から天明七年(1782年~1787年)まで六年間にもわたって、日本列島を襲い続け、北は北海道から南は沖縄に至るまで日本中のいたる所で餓死者が出ました。なかでも、最も悲惨をきわめたのが、古くから飢饉の本場と言われる東北地方でした。東北地方には「ヤマセ」という言葉があります。「ヤマセ」とは、太平洋の北東から東北地方に吹きつける「山背風」という名の冷たい風です。一度この冷たい風が吹き始めると、東北地方には必ず寒い夏が来て、稲が実らず、大勢の人が飢え死にしたのです。「山背風」は「餓死風」とも呼ばれ、先祖代々「ヤマセ」に怯え続けて暮らしてきました。
天明二年から三年にかけて東北地方の気候はいつもと違っていました。冬が暖かく、春が寒いのです。案の定「ヤマセ」が吹き始めました。春が過ぎ、梅雨が過ぎても降り止まぬ冷たい雨。田んぼの水は冷えきり、真夏になっても人々は冬の着物を着るありさまでした。お百姓さんたちは、ほんのわずかな雨のやみ間、雲の間からのぞく夏空にほっと胸をなでおろし、稲の実りにかすかな望みをつないでいましたが「ヤマセ」はやみませんでした。
飢饉に拍車をかけた「浅間の大焼け」
東北地方の人々が飢饉に怯えていたちょうどその頃、天明三年(1783年)六月(現在の暦では七月頃)東日本にある浅間山が大爆発を起こしました。世に言う「浅間の大焼け」は、天明三年六月から八月の二ヶ月に渡って八回も起こりました。この「浅間の大焼け」が天明の飢饉を、日本の歴史上例を見ないと言われる大飢饉に追い込んだとも言われています。
真黒な火山灰は浅間山から遠く離れた東北地方にまで達しました。黒い灰は太陽を深く隠し、「ヤマセ」に震える東北の寒い夏をいっそう寒くしたのです。六月から八月といえば、稲の実りにもっとも大切な時期です。稲は枯れつくし、農作物は全滅しました。そして天明の大飢饉が起こったのです。
歴史上最大規模の飢饉
なかでも悲惨をきわめたのが、東北地方の南部だったと言われています。
こんな記録が残されています。
人々はあまりのひもじさに、来年にまく種子として残しておかなければならい、作物という作物の種の全てを食べ尽くしてしまいました。食べ物を盗み、家族同様に大切な牛、馬、鶏、はじめ全ての家畜をも食べ尽くしました。草はもちろん、木の皮までも剥がして食べました。青森県の八戸というところでは、人口六万人のうち三万人以上の人が餓死したと記録されています。天明の大飢饉によって、東北地方で飢え死にした人や飢えがもとで病気になって死んだ人の数を合わせると少なくとも二十万人におよんだということです。そして日本全体では、九十万人以上の人が飢え死にしたといいます。当時の日本の人口は約二千六百万人ですので、この飢饉がどれほどすさまじいものであったかがわかります。