稲の起源

稲作の起源には多くの説があり、メソポタミア付近、東南アジア、サバンナ地帯のどこかだろうと言われています。稲はもともと熱帯地方の植物です。

時代ごとの米作り

縄文時代・弥生時代

本格的にお米の栽培が始まったのは弥生時代と言われています。お米を栽培するようになってから人々は一定の土地に代々住みつくようになりました。弥生、奈良時代頃に食べられていたお米はもち米とうるち米の2種だと言われています。今の食べ方とは違い、お米を水でどろどろに煮たものを食べていました。お米は昔から貴重な食べ物で、麦やアワ、ヒエなどの雑穀米を米に混ぜて食べていました。お米を保存する方法として高床式の倉庫が作られました。

奈良時代

鉄製の農具が広まり、仕事の効率が上がりました。直接種もみを田んぼに撒くのではなく、「田植え」が始まりました。しかし農民を支配していた地方の国司や郡司は種もみを無理やり農民に貸し付け、高い利息をしぼりとっていました。そのため厳しい取り立てや労役の辛さ、貧しさのあまり自分の田んぼを見捨てて逃げる農民が続出し、田んぼが荒地になる土地が増えました。

平安時代

現在のご飯に近い強飯(こわいい)と姫飯(ひめいい)というものが出てきました。強飯は蒸篭でお米を蒸したもの、姫飯は釜でご飯を炊いたもので、上流階級の人が主に食べていました。貧しい人たちはお米を食べるときにお粥にして、麦やアワ、ヒエを混ぜたり、畑でとれた農作物を混ぜたりして食べていました。

鎌倉時代

西日本を中心に牛馬耕が行われるようになり、その糞尿を利用した厩肥も普及していきました。また東日本を中心に、夏には水田で水稲を栽培し、冬には水を落とした畑地化にして麦を栽培する米麦二毛作が行われるようになりました。

室町時代

厳しい気候条件に強く、排水不良の土地でもよく育つ占城稲が中国から渡来し、降水量の少ない地域などで生産されるようになりましたが、味が悪いためかあまり普及しませんでした。くわ、すき、かまなどの鉄製農具がさらに発達し、牛や馬を使った農耕もさらに広まりました。稲作に欠かせない水も水車を使って田んぼに引くようになりました。生産量はさらに増え、品種もこの頃増えていきました。

戦国時代

大名たちは新田開発のための大規模な工事や、水害防止のための河川改革を行いました。
豊臣秀吉支配の頃、農民から正確に年貢を取り立てる為に、太閤検地を行いました。村別に耕作地の面積、生産量、耕作人を調べて検地帳に記録し、それを元に年貢を直接農民に納めさせました。

江戸時代

人口が増加したため、為政者たちは新田の開墾を推進し、傾斜地にも棚田を設けて米の増産を図りました。その結果16世紀末の耕地面積は全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度だったものが、18世紀前半には耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達しました。また農具も発達し、備中鍬や穀物の選別を行う千石通し、脱穀の千歯扱などが普及しました。肥料として人間の排泄物が利用されるようになり、慶安の御触書でも雪隠を利用して、糞尿を集めるように勧めています。

明治時代

柔らかい湿地を人間が耕す方法から、硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行われるようになりました。肥料も排泄物から魚肥や油粕など金肥と呼ばれる栄養価の高いものが使われるようになりました。西洋の化学技術も導入され、農業試験場などの研究施設も創設されました。

大正時代

第一次世界大戦後、日本は好景気になりました。この頃から、人力で動いていた農業機械が電気や石油を使った動力で動かされるようになりました。シベリア出兵を見込んだ米の買い占めのせいで、米の値段は2倍に跳ね上がりました。それに対して1918年夏、富山県で暴動が起こり全国に広がりました。

昭和時代

昭和初年の米の生産量は明治11~15年比で2倍以上に増加しましたが、人口が幕末の3倍近くに膨れ上がったことにより、深刻な米不足に陥りました。そのため、朝鮮や台湾からの米の移入で不足分を補うようになりました。戦後、国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食とする保護政策を行いました。1970年代になると田植機による田植えの機械化などにより、米の生産量が消費量を大きく超え、政府によって米の生産を抑制するための制作が行われました。

平成時代

品種改良において、従来重点を置かれていた耐寒性や耐病性の強化から、食味の向上に重点を置かれるようになりました。1989年から1994年の間、農林水産省による品種改良プロジェクト「スーパーライス計画」が行われ、ミルキークイーンなどの低アミロース米が開発されました。2011年には米よりパンの消費量が上回り、行政や関係団体は米の消費拡大を目指して取り組みを行うようになりました。

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