西日本を襲った飢饉

天明の大飢饉は東日本に甚大な被害をもたらしましたが、西日本には飢饉はなかったのでしょうか。そんなことはありません。西日本の飢饉は、冷夏と害虫の発生などが原因でした。

天明の大飢饉に次ぐと言われる飢饉に、享保の大飢饉があります。天明の大飢饉の約50年前、江戸時代の享保十七年(1732年)西日本を突然襲った飢饉です。

冷夏と害虫「ウンカ」が原因の飢饉

享保の大飢饉は、冷夏と稲の害虫「ウンカ」の大発生が原因でした。今でこそウンカは、中国や南の国から季節風にのって海を渡り、日本にやってくることが分かっていますが、三百年も昔の江戸時代の人々が、そんなことを知るはずもありませんでした。

ある日突然空一面を真っ黒に覆い、不気味な羽音をたてながら稲田めがけて雨のように降り注ぐ虫の群れ。あっという間の、世にも恐ろしい出来事にお百姓さんたちは、ただうろたえ泣き叫ぶばかりでした。ウンカの大群は盛り上がるばかりに群れ集まって穂を出すばかりに成長した稲の葉といわず、茎といわず、全ての養分を吸いつくしました。美しい青田はみるみる白茶けた枯れ田に変わり果てていきました。

ウンカは九州で発生し、あれよあれよといううちに中国、四国、近畿の全域をのみ込み、西日本の稲を全滅に追い込みました。その凄まじさはたった一晩で数万人の稲を食べ尽くしたといいます。

当時の様子を表す言葉が残されています。
「田の水は、ウンカの色でまるで醤油のように赤くなり、ウンカが川を流れると、川の色がウンカの色に変わるほどであった」と。

享保の大飢饉の記録に残された餓死者の数はさまざまですが、近畿地方全体で、餓死した人や飢えに苦しんだ人々の数を合わせると、
約九十七万人、牛や馬など、死んだ家畜の数は一万四千頭以上という数字が残っています。

また、こんな話も残っています。
「この大飢饉で、道に行き倒れて死んでいく人の数は数えきれなかったが、そのなかに一人の男がいた。その男は、他の餓死者とは違い、衣服をはじめ身につけているものが、並々のもではなく立派であったので死骸をあらためて調べてみると、百両という大金を首にかけていた。こんな大金持ちまでも飢えに苦しみ、食べ物を求めて旅に出たと分かったのであるが、百両もの大金を出しても、誰にも見向きもされず一椀のお米さえ買うことができなかったとは大変残念である」と。
百両といえば、一人数十年分くらいのお米が買える大金です。
それほどの大金を目の前にしても、誰一人見向きもしなかったのです。
お金の虚しさを語って余りある話ですね。

西日本のなかでも、もっとも水枯れに苦しんだのが四国の香川県の人たちでした。香川県は、もともと日本で一、二と言われるほど雨の少ない土地です。そのうえ、せっかく降った雨もすぐ眼の前の海に流れ込んでしまいます。

享保の大飢饉キッカケで、水不足に苦しむ西日本の人々は、それぞれの土地に数えきれないほどの池を作りました。香川県の人々が、日本一と誇る満濃池(まんのういけ)は、今からおよそ千三百年も昔に作られた日本で最も古い池の一つとして知られています。

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