百姓一揆とは

そもそも、一揆とは「一致協力して目的を達成しようとすること」という意味の言葉。

百姓一揆とは、江戸時代に百姓を中心として徒党を形成し、領主の政策などに反対した農民闘争のこと。現代でいえば、デモのようなもので、領主を傷つけることが目的のものではありません。

百姓一揆の原因

農民たちの不満による蜂起、百姓一揆の発生原因はさまざまでした。
年貢の負担、役人の不正、専売制、悪徳高利貸しなどが原因として挙げられますが、
なかでも、年貢の軽減を求めた百姓一揆が一番多かったようです。

年貢の負担について

大名は財政が苦しくなると増税したので、
農民が納める年貢は増え、生きていくのがやっとの状態になったり、
度重なる飢饉の影響で死者もでるほどでした。

年貢は検地によって決められていました。
検地とは、田畑の測量及び収穫量の調査のことで、
この検地と呼ばれる調査を元に検地帳が作られ、年貢の賦課が決められました。

百姓一揆を一言でいうと、農民たちの「年貢を下げろ。」というアピール運動ともいえるでしょう。

百姓一揆の形態

幕府や大名などの封建支配者に対して、農民が起こした一揆にもさまざまな形態があります。

越訴(おっそ)

越訴とは、所定の手続を経ずに上級機関に直接訴えかけるやり方。
自分の村の窮状を将軍や領主に、「お願いします。私たちの村がとんでもないことになっていますので,年貢を下げてください。」と直訴するパターンです。代表者は処刑されることが多かったようです。

強訴(ごうそ)

強訴とは、徒党を組んで集団の圧力で強引に要求する一揆の形態の一つ。
大規模な一揆では数千から万余の人々が結集し、城下などへ押し寄せた。江戸時代、幕府は百姓一揆のことを強訴と呼んでいた。

逃散(ちょうさん)

逃散とは、強訴で要求が通らなかった場合にとられた最終手段で、領主の受ける打撃も大きい一揆形態。
要求を貫徹するために領主への抵抗手段として一村を挙げて逃亡するということ。耕作を放棄し、田端を捨て、居村を立ち退き、他領や領主権力の力の及ばない山野などに集団で逃亡した。

打毀(うちこわし)

打毀とは、集団で家々に乱入し、家財などを破壊する最も激しい一揆形態。
集団的な行動である強訴(ごうそ)と一体になることが多かった。打毀は領主に対する抗議行動ではなく、一揆への参加を拒んだ村役人、領主と結託した者、買い占めで物価をつり上げた商人、などに向けられ、集団的な行動である強訴(ごうそ)を容易にするために行われた。

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